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Works

新入荷の作品をご紹介いたします

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立原杏所 葡萄図 紙本水墨 扇子

本紙41.7×14.6㎝

柄長25.8㎝

立原杏所(1786-1840)は水戸藩儒で水戸彰考館総裁を務めた立原翠軒の長男です。

幼少の頃、水戸の町絵師・林十江や、翠軒のもとで経学を学んだ下野国の画家・小泉斐に画を学びました。

28歳の時に江戸小石川藩邸勤務になってから谷文晁に師事、文晁のもとで中国の明・清絵画を模写するなど諸派も取り入れその画法を身につけ、謹厳で気品のある独自の画境をひらきました。

また、水戸藩士として七代藩主徳川治紀・八代斉脩・九代斉昭の三代に仕え信任も厚かったと同時に、そのすぐれた画才を認められ、主命により膨大な名画の複製に努めました。

 杏所の葡萄図といえば、東京国立博物館所蔵で重要文化財に指定されている葡萄図がつとに有名で、天保6年(1835)、藩主・斉昭の御前の席画を武士としての矜持から拒否し、大酒した翌日に酔ったまま描いたと伝わる作品です。

杏所としては珍しく、激しく奔放な筆致の異例の作品で、制作過程の逸話も含め杏所の代表作とされています。

 この東博本葡萄図にしばしば指摘されるのが、杏所が幼少期に画を習ったという林十江(1777-1813)の影響です。

十江は水戸の酒造業を営む家に生まれた町絵師で、大胆な構図や奇抜なテーマ、奔放な筆墨で異色の画境をひらいた奇才として知られています。

年少の頃から画才を発揮、12歳の頃、立原翠軒に目をかけられてその塾に出入りし、9歳年下のまだ幼い杏所に画の指導をしたといいます。十江の生涯は37年と短く、杏所が直接画を習ったというのもわずかの間であったでしょうが、その存在は杏所の創作に大きな影響を及ぼしたと思われ、画風を全く異にするにも拘らず、杏所の作品には時としてその片鱗が現れます。

夭折した十江の墓碑銘を翠軒・杏所父子が手がけていることなども十江への特別な思いを感じさせます。

 本作は扇面という小さな画面を水墨の没骨による大胆な筆致で表現しています。

葡萄の大きな葉と曲がりくねる幹、濃墨で表す葉脈やくるくるとからまる蔓の即興的な運筆などに林十江を思わせる奔放さをみせます。

いっぽう、葡萄の実の一粒一粒を墨の濃淡で丁寧に塗り分け、重なり合う果実の輪郭線を塗り残す繊細な描法は本作の特徴で、一つの画面に取り入れられた対照的な手法がバランスを保ち、扇子という形にふさわしい瀟洒で気品のある世界を創り出しています。

当時の扇子の姿のまま現在に伝わる点でも貴重な一点です

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織田有楽 5月23日付 梅岑軒宛書状

本紙巾43.6×31.7㎝

総丈巾46.6×114.5㎝

 織田有楽(1547〜1621)は、織田信長の実弟で名は長益。本能寺の変後、秀吉に従い、大坂冬の陣では大坂城にあって豊臣を支える中心的役割を担うも、夏の陣を前に豊臣から離れました。

のち京都に隠棲し茶道に専念、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに茶室如庵を建てました。茶は千利休に学び利休七哲の一人にも数えられています。

  本書状は5月23日、相国寺の塔頭である慈照院の寮舎・梅岑軒に宛てた新出の書状です。

「昨日のお礼のお手紙を受け取りました。雨の中おいで下さったことを忝く思います。またこちらからご連絡します。」などと述べています。

  本書状の出される2日前、5月21日に有楽から同じ宛名に出された書状が徳川美術館に所蔵されています。

その内容は、「明日の昼お越しになると伺っていましたが思いのほかの大雨、足元が悪いでしょうから延期しましょうか、あなたのお考え次第に。」といったもの。

翌22日は雨にもかかわらず梅岑軒は予定通り有楽を訪問したことが、この新出の書状により明らかになりました。

  宛名・梅岑軒は茶道を通じ有楽と親交のあった昕叔顕晫(きんしゅく けんたく ?~1658)が考えられます。

相国寺鹿苑院主歴代の執務日記『鹿苑日録』によると、昕叔顕晫が記主を勤めた元和6年(1620)5月22日の項目に「午刻赴有楽翁。賜茶也。」(午後に有楽翁を訪れ、お茶をいただいた。)とあり、この一件についての記述である可能性があります。

であれば本書状は有楽の没する前年・74歳の筆で、有楽が晩年住した建仁寺の塔頭・正伝院から出された書状ということになります。

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浦上玉堂 「七月五日付 書簡」

本紙巾39×28.8㎝

総丈巾51.5×107㎝

浦上玉堂(1745〜1820)は岡山藩の支藩である鴨方藩で生まれました。

本書簡は筆跡や内容から、玉堂五十歳のときに春琴・秋琴の二子を連れて出奔、脱藩した前後のものと考えられます。

宛名の梶原藍渠は讃岐の豪商で歴史家。本書簡にも登場する長町竹石、後藤漆谷(木斎)らとともに讃岐を代表する文人。

玉堂は鴨方藩士時代から彼らと盛んに交わり、文雅の世界に遊んでは、書画の合作などを行っていました。

本書簡はそうした風雅な集いに関することではなく、玉堂がしばしば行っていた書画の斡旋に関する内容です。

三熊海棠(花顛)、董九如、岡田米山人、柴野栗山ら幅広い顔ぶれの名が挙げられ、清貧の琴士、孤高の文人とイメージされる玉堂とはまた違った姿を垣間見ることができます。

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本阿弥光悦「七月九日付 書簡」

本紙巾44.3×14㎝

総丈巾46.8×81.2㎝

この手紙は、弥左衛門なる人物の近況と、光悦が賀州のもとに10日から逗留する予定を知らせています。

文中の賀州は、伊賀国、加賀国の両方の略称としても用いられますが、ここでは加賀国のことと思われます。

光悦の父・光二は加賀前田家から扶持二百石を受けて仕え、光悦もそれを継承しています。

前田利家と親しい交流のあった光悦は、二代藩主利常にも仕え、しばしば御用を勤めるため金沢に逗留しました。

光悦は家業の刀剣鑑定家・研磨業の他、芸術家として様々な作品を創作しています。

この手紙一通を見ても文字の連綿や行間、空間、余白をなど、受取り手にその美を理解してもらえるよう意図的に書いていることが窺われます。

現在我々が光悦の書をお茶席や床の間で珍重するのはその美意識を感じとるからでしょう。

また、光悦の手紙に限らず他の手紙類でも登場人物の肩書や名称、訪れた場所等よってもその手紙が書かれた年代がわかることもあり、歴史的な資料としての側面も併せて見ると楽しいのではないでしょうか。

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